踏み出した世界は、ひどく寂しく、冷たくて。
それでも、何より美しくなることを、知っているから。




冬がようやく去り始めたばかりの今、まだまだ寒さは厳しい。
一歩外に出れば、皮膚をピリピリと刺激する冷気、冷たさは爪先からジワジワと這い上がってきて、体温を奪っていく。
普段であれはネクタイを緩めているスタイルが定着しているジャンも、シャツのボタンは元より、マフラーで首元を多い、コートもしっかりと着込んでいる状態だ。
つけ慣れない手袋の感触に違和感はあるけれど、とてもではないが、外す勇気はない。
ハァ、と空へと向けて洩らした息は、明け方を迎える今、薄闇の中でも白さがはっきりと目に映った。

「ありえねぇ〜!何この寒さ!」

何度目かも分からない叫びに、隣を歩く男は低く笑っただけだった。
同じ程度の装備で、体感温度も同じはずなのに、その余裕のある表情が羨ましく、悔しい。
軽く睨みつけても、動じることもなく、尚も笑みを深めるばかりだ。

「本当に、今日はいつにも増して寒いね」

「顔と言葉が一致してねえぞ、ベルナルド」

太陽もまだ顔を覗かせていない。
シン、とした静寂は普段の街並みとは真逆のもので、まるで別世界のようにも感じる。
ボンヤリと淡く輝く風景は、明るさを帯び始めた空と相まって、幻想的だった。
数時間後にはたくさんの人間がこの大通りを歩くのだろうけれど、今はただ二人……部下もつれずに歩いているベルナルドとジャンだけしかいない。
「だって、さ。ジャンとこうしているのも久しぶりだろ?」
だからね、と言われたら、反抗してやろうという気持ちも弱まってしまう自分が情けない。
ベルナルドはジャンに対して非常に甘いが、ジャンだってなかなかにいい勝負なのだ。
どんなに無茶苦茶な願いだろうと、このアップルグリーンの瞳に覗きこまれると「嫌」と即答できなくなるのが十分毒されている良い例だろう。
――今のこの現状も、ベルナルドの希望を聞きいれた結果なのだから。

「なんか、散歩したいってアンタらしくねぇな」

「そうかい?まぁ普段はほとんど室内ばかりだからね」

「で、久しぶりのお散歩はどうよ?」

「そうだね、空気が冷た過ぎて肺が痛くなりそうだ」

「………ダーリン」

「あぁ、そんな目をしないでくれよ、ハニー……今日逃したら、こんな時間もないだろう?ジャンと一緒に見たかったんだよ」

呆れたように見上げてきたジャンの瞳に、苦笑を浮かべた後、空を見上げる。
つられるように、ジャンも視線を上げた。
まだ、宵の色を残す空。
白い雲が線を描くように浮かび、街並みを縁取るように段々とオレンジ色の光が混じっていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
夕刻の時に見る光景とは、似ているようで、何かが違う。

「光の屈折率で、朝焼けは青色が強く感じるんだよ。夕焼けは、もっと赤く見えるだろう?」

「くっせつりつ?……よく分かんねぇけど、たしかに、もっと夕焼けは空一面が赤いって感じだよな」

 青白くも思えるそれは、今の空気にも似て、どこか凛とした雰囲気がある。赤みを滲ませた色は、冷たくも、暖かくも見えるから不思議だ。

「綺麗なもんだな……寂しい感じするけど」

「フフ、そうか」

「なんでそこで笑うんだよ」

  問いかけると、「いや、だって」と零しながら、ベルナルドは歩みを止めた。一歩先で同じく歩みを止めたジャンを見つめがら、眩しいものを見るように目をして。

「だからね、俺はこの風景が好きなんだよ」

「好き……?」

「俺もね、この光景をずっと寂しいと思ってたんだ。だけどしばらく前から変わってね……ほら、薄闇に段々と光が混じっていって朝を迎える……最初は寂しい感じがするけど、やがって変わっていく世界は……見る度に、ジャンが思い出すから、ね」

予想外の言葉に息を飲んだ。

「俺の中にゆっくり入り込んでいって、段々と染め上げて、寂しさも恐怖も消して……気づいたら、朝を迎えてる」

コートから出した彼の右手がそろりとジャンの輪郭へと伸ばされて、冷えた指先がそっと頬を撫でた。

「ね?」

「バッ!」

告げられた言葉の恥ずかしさ、触れられた体温の予想以上の低さ、そのどちらにも驚いて、声を上げた。
先程は絶対に取らないと思っていた手袋を躊躇いなく外すと、ジャンよりも少し大きなその手を包み込んだ。
羞恥で目元に熱が集まっている、耐えきれず視線は少し逸らして、「どんだけ冷えてんだよ、バカ」とささやかな抵抗の台詞も、この男を喜ばせるだけだろうけれど。

「……お前は本当に暖かいね、ジャン」

伝わってくる暖かさに、仕草一つに、愛しさが増していく。そうして、ジャンと、ジャンの背後に見える世界に、ベルナルドは目を奪われる。

「綺麗だな」

ベルナルドの言葉に、振り返ったジャンの視界に映った色は、オレンジに染め上げられた空。
青白さは消えて、暖かな太陽の色へと変化していくそれ。……たしかに、綺麗だ。

「あぁ……そうだな」

しばらく無言で空を見上げていたが、やがてジャンがほら、と歩き出そうとベルナルドを呼んだ……手を繋いだままで。

「――ジャン?」

「寒がりなおじさんのために、サービス」

振り向きもせずに手を引かれた。その手を握り返して、ベルナルドはジャンの横へと立ち、共に歩き始める。
どうにも頬が緩んでいたのは、自覚済み。

「ありがとう」

返された言葉はなく、ただ、ジャンは鮮やかに笑った。
目の前に広がる世界、伝わってくる体温。
満たされたように、ベルナルドは寂しさなど感じさせなくなった空を見上げた。







綺麗なのは。

(この世界を教えてくれた君こそ。
この手から逃げる術などない幸福に、心からの感謝を)
















 END.










2月13日にあったラキドオンリーにて無料配布本に載せたお話です。
幸せな感じのベルジャンと思って、イベント前日に慌てて書いた記憶があります(笑))



2011年8月9日 サイトアップ