僅かに吹いた温い風が、頬を掠めた。
毎日鬱陶しい程に段々と暑さを増していく気温も、それでも夜となれば少しは落ち着いている。
日中の茹だるような、それこそ地面から湯気でも出始めるのはないかという 熱を思い出し、ベルナルドは髪が張り付くような感覚を覚えて前髪を掻き揚げた。
街灯が照らす街は僅かに賑わいを静めている。
日付が変わる時刻が近づいているためか、歓楽街からも少し離れているこの通りは人通りもまばらだ。

まっすぐに延びる道、それを縁取る街灯だけが点々と続いている。
街の喧噪は遠く、人気のない道は遮るものはなく、少し先の景色は黒一色としか確認できない。
日中であれば見慣れた風景のはずなのだが、住み始めて間もない新しい隠れ家へと続くこの道を夜間に歩くのは初めてだった。
足の爪先から何かが這いあがってくるような・・・どこか恐怖を感じるのは、頭の隅に残る消し去れない記憶が騒ぐからなのだろうか。
払拭するように、重く感じる足を動かして前へと進むが、進めども、やはり眼前にあるものは「闇」でしかなかった。

(――――――ッ・・・・・)

オーバーワークにより疲れ果てた脳は、やがて、まるで今歩いている道だけが唯一の「道」なのだと可笑しな考えを持ち始める。
ここから、別の場所へと続く道はいくらでも繋がっているというのに。
この先にあるのは、この足が向かっているのは、本と書類だけが溢れた味気ない部屋でしかないというのに。
―――どうして、あの牢獄での記憶が沸き上がってくるのだろう。

(疲れてるな・・・・・)

深いため息を零してみても、何も消えはしなかった。
幹部筆頭になって、月日はあまり経っていない。ミスをしないようにと神経を張り詰めらせ、しがみつく毎日。
充実しているというべきなのか・・・息つく暇もない、その表現の方が的確だろうと思える程度には必死なことは確かだ。

(・・・明日は・・・・朝には会合の最終確認をして・・・・・あぁ、そうだ、アナに会いにいく約束をしていた・・・・・)

考え始めると、頭の中の靄が広がっていく感覚がする。
やるべきことはいくらでもある、眠らずに働くことができたならどんなにかいいだろうかと本気が考えるぐらいだ。
それでもいくら願ったところで、眠気はやってくるし、そうなれば頭の回転率は下降していく。
あっという間に毎日が過ぎ去っていって、気づけば明日という日はもう目前となっていた。
先程よりも、もっと深いため息が出そうになって、ベルナルドはもう一度髪をかきあげた。
通常であれば部下がベルナルドを自宅まで送り届ける。今夜だってその予定で、食事会が終わり、会場の外へと一歩出たベルナルドの 目の前に迎えの車はピタリと現れた。
だがそれを断って徒歩で帰ることにしたのは、そのホテルから家まで近かったことと、ふいに沸いた考えからだった。
溜まりに溜まった疲れに、口うるさい老人たちの相手はさらにそれを上塗りする結果になった。
今夜は真っ直ぐに家に帰って、そして泥のように眠ろう。すぐに朝はくるけれど、せめてそれまでは・・・その考えは、 見上げた空に浮かぶ、見事な満月に消え失せた。
雲はなく、漆黒の空を彩る星たちも今夜は姿を見せていない。
ただあるのは、金色に輝く月だけだ。
あまりに眩く、美しいベールを纏っているかのように闇夜へと光を放つそれは、ベルナルドに「彼」を思い出させ、すぐに会いたいという欲求を起こさせた。

彼がよくいる店を何軒か覗いてみたが、残念なことに会うことは叶わなかった。
なぜか「会える」と、そんな強い予感をどこかで感じていたため、その分すべて外れに終わったことにベルナルドは深い脱力感を 覚え、足取りは重いものへと変わっている。
会いたかった、「明日」という日に、別段特別な感情を自身では抱いていない日に、けれども彼にだけはたまらなく会いたかった。
知っているはずもない、例え知っていたとして、覚えているという確証もない。
ベルナルドとの関係は、「友人」以上でも以下でもないのだから。
だが、今日から明日へと日付の変わる瞬間に彼と共にただいることができたなら、それだけでも自分にとっては「特別な日」に なるような気がして。
明日の朝には、また忙しさに追われ、夜には彼女の元へと会いにいく約束にしている。
誰よりも早く、彼に会いたい、なんて。少女思考に笑いが漏れた。

いつから、だったかは分からない。
気づけば、ふいに見る笑顔に救われていて、親しさは愛しさに変化していた。
触れたくてたまらなくて、だが今の彼との関係と天秤にして賭けに出れないほどにはベルナルドにとって彼は大きな存在となって しまった。
この感情を告げることはないだろう、今までも、これからも。
ただ、あの笑顔を見たくなった。

闇は、深く、重く、ベルナルドの前にある。
歩みを止め、空を見上げた。気づけば、周囲には誰もいなかった。遠く聞こえていた喧騒も、耳に痛いくらいの静寂へと変化している。
目を閉じれば、嫌でもありありと過去の記憶が騒ぎ出して、不安や恐怖が這いあがってくる。だが、閉じた瞼からも僅かに感じる、 光。そこに確かにあると感じるだけで、確かに恐怖や不安が薄らいでいくのを感じた。

「会いたいな」

願う声は空しく、誰にも聞きとられることもなく、消えた。
そっと目を開けば、変わらず満月がそこにある。

「会いたいよ、ジャン」

強く願いを込めて呟いて――――息を飲んだ。

満月から視線を下ろすと、ずっと先に、向かい側に人影がある。
まさか、と騒ぐ胸を落ち着かせて、違う、と期待しようとする脳に言い聞かせる。
けれども、やがてその人影がベルナルドに向かって、足を早め、走り出してきた。
近づいてくる人影に、ぼんやりと確認できていた輪郭が段々と明確に見え始める。あぁ、揺れる、あの美しい髪は、決して満月に 照らされてできる訳はない。

「ベルナルドッ!」

息を弾ませながら呼ばれた名に、ベルナルドは夢でも見ているかのような感覚がした。
気づけばゆらりと足は勝手に歩き出し、その声の主へと向かって歩みが速まっていく。
なんてことだ、自分の予感は間違いじゃなかった。

「ハァッ・・・・やぁっと、見つけた」

「ジャン・・・どうして・・・・・」

呆然と出た言葉に、蜂蜜色の瞳を細めてジャンが笑った。
爪先から這い上がってきていたはずの不安や恐怖は消え、代わりに歓喜がベルナルドの皮膚を滑っていく。

「明日から、さ。またちょっと監獄のスローライフに行くことになったから、今日のうちに会いたくてさ。アンタのいそうなところ 探してたんだけど、見つからね―んだもん」

「・・・随分と、急だね。今度は、どこだい?」

「あぁ大丈夫、前にも入ったとこだし。すぐに抜け出してきちゃうから安心して、ダーリン」

得意げにウィンクをされて、思わずハハっと笑ってしまった。
急に決まった監獄行きを報せにやってきてくれたのか。理由なんて何でもいい、会えた、会いたがってくれていた。
それだけで、こんなにも嬉しくなれるものなのかと笑いだしたくなるくらいには、ベルナルドは今の現実に歓喜していた。
今までジャンが入った刑務所はどこも比較的安全なところばかりだったから、言葉通り、問題はないかと思うが、 それでも後で調べて、監視も何人も買っておいた方がいいだろう・・・・・疲れていたはずの脳が一気に動き始めると同時に、 「じゃなくて!」とジャンが声を上げた。
驚いて何度か瞬きを繰り返しているベルナルドを余所眼に、ジャンは「そろそろだな」と何かを数えるようにしている。
しばらくの間、下を向いたまま沈黙を続けている姿に声をかけようかどうか躊躇い始めた頃、ジャンが口を開いた。
ベルナルドの瞳を見上げるそれは、悪戯を思いついたような、母親を喜ばせる子供のような色をしている。
まさか、と息を飲む。

「3・・・2・・・1・・・Buon Compleanno!ベルナルド!」

静かだったはずの街に、どこかの時計塔から、日付の変わったことを知らせる鐘の音が響いた。
だがそんなものよりも、ベルナルドの視覚も聴覚も、感覚すべてはジャンへと向かっていて。夢だ、と頭のどこかが叫んだ。
―――満月を背にして、楽しそうに笑う鮮やかな彼の姿は、夢ではない。

「知って、いたのかい?」

驚き過ぎたのか、嬉しすぎて頭がフリーズしたのか、そんな言葉しか出てこなかった。

「アンタの部下にしばらく前に聞いたんだ。ホントはさ、監獄行きがなければ、今日普通に会いに言って、一言お祝いしてやるか〜 ぐらいだったんだけど。・・・まぁ、結果オーライ?直前にアンタを見つけて、ピッタリに祝えるなんて、やっぱ俺、ラッキードッグ?」

「――――ハハハッ!」

ラッキーなのは、ジャンじゃない。俺だ。
ラッキードッグを引き寄せるなんて、すごい幸運じゃないだろうか。
普段の落ち着いた姿とは違う、声を上げて笑いだしたベルナルドの姿に、今度はジャンが驚いて凝視している。

「なんだよぅ、そんなに嬉しかった?・・・俺、アンタにあげれるような高いプレゼント買う金なんてねぇから、 酒の一杯でも奢ろうと思ってただけなんだけど・・・・・」

さっきとは打って変わって申し訳なさそうに視線を彷徨わせたジャンに、愛しさが溢れだしそうになる。
コロコロと変わる表情、自分だけに向けられた言葉、こうして、誕生日を他でもない、ジャンが一番に祝ってくれたこと。

「最高だよ、ジャン」

俺が奢ってやりたいくらいだよ、と柔らかな髪を撫でたら、僅かに目元を染め、ジャンが睨みつけてきた。

「アンタの誕生日なんだ、そりゃ・・・あんまり高い酒は奢れねぇけど・・・・・」

「違うよ、俺はね、お前に会いたかったんだ。だから、本当に、嬉しいんだ」

甘過ぎる声が出た。浮かれている、分かっている。
マズイだろうか、いや、後でどうにでも誤魔化せる。
今はそんなことを考えるより、この感情を抑えるよりも、彼に。

「ありがとう、ジャン」

友人としてで構わない。自分だけがジャンを愛しているだけで・・・・・そう、言い聞かせた。
こうして自分だけに向けられる笑顔を、来年も同じようにして見られることをベルナルドは心の底から願う。
ジャンは目元をさらに赤く染めて、もう一度、小さな声で「おめでとう」と笑った。























「Buon Compleanno ベルナルド」

「ありがとう、ジャン。嬉しくて、今にも天国に逝っちまいそうだよ」

「誕生日迎えて早々に天国に行かないで、ダーリン」

真っ白なシーツに、ベルナルドに寄り添ったジャンの金髪はよく映えている。
ジャンが腕の中にいる、愛しさを詰め込んだ柔らかな動きでその髪の撫でながら、ベルナルドは初めて彼に 誕生日を祝われた時のことを思い出していた。
あの時ほど幸福な瞬間はないかもしれない、と思っていた若い自分に言ってやりたい。
本当の幸福は数年後にやってくるのだと。
一生隠しておくつもりだった想いの鍵は壊れ、きっと伝えてしまったと同時に終わるだろうと諦めていた関係は、 友人のままでいられるどころか、様々な出来事の結果、恋人に昇格しているなんて。
あの頃の自分には「ありえない夢」でしかなかっただろう。

「・・・なんだその、えっろい顔」

「ひどいな、こんな男前なのに」

「・・・男前だから、余計にタチが悪いんだって―のッ」

僅かだけ力を込めた指で髪を引っ張られた。痛いよ、そう笑った声までひどく甘かった。

「アンタがこんなにエロい顔で笑うなんて、初めて誕生日を祝った頃は知らなかったぜ」

「フフ、俺も、お前がベッドの中でもこんなにも可愛いなんて、あの頃は知らなかったな。嘆かわしいことだ」

「悟ったみたいに言うな!・・・ったく・・・・・」

「―――――ねぇ、ジャン。俺は幸せだよ。誕生日なんて、誰に祝われても、何の意味もないと思っていた。 お前に祝われるだけで、無意味だと思っていたことも、こんなにも鮮やかに思えるなんて・・・・・」

腰に回された手が、ジャンをそっと引き寄せた。
ジャンは望まれるままに肌を擦りよせて、その声に耳を傾けた。互いの皮膚から感じる体温が暖かく、鼓動の早さも緩やかに重なっていく。

「あの誕生日の夜も、監獄の中で震えてた夜だって、お前だけが俺を救ってくれた・・・・・愛してる・・・・・愛してる」

耳元に囁かれた低い声。額、目元、頬、何度も何度もキスを落とされて、ジャンは擽ったそうに微笑みながら、それを受け止めた。

「俺にとって、あの頃からアンタの誕生日は特別だったよ」

今は何よりも特別だけどね、と笑って、そうして愛しい男の唇にキスを送る。





「誕生日おめでとう、ベルナルド。――――――愛してる」

















幸福は、この腕の中に。












 END.










誕生日おめでとうベルナルド!
14日にお祝いできなくてゴメンナサイ!




2010年6月16日