錆びついた鉄格子。
固く閉ざされた黒い錠。
染みついた、カビの匂い。
薄汚れたベット。
狭い狭い・・・・独房。
すべてが俺を蝕んでいく。
音も、空気も、この空間を作るすべての存在が、俺を壊そうと消え去れない過去の記憶を呼び起こす。
・・・・何よりの恐怖は夕暮れと共に訪れる。
薄闇から始まる、長い長い夜。
「・・・・ハッ・・・・・ァ・・・・」
息を殺し、耳を塞ぎ、目を閉じて。
脳髄にまで沁み渡った恐怖から逃れようと無様にもがく。
薄いシーツを握りしめ、自らの体を掻き抱いて・・・・その行為が何の救いにならないと理解していても、
何もせずにいることはできない。
ほんの少しでも気を紛らわすことをしなければ、きっと自分は簡単に我を忘れ、狂ってしまうことだろう。
願うことは、ただ早く、一刻も早く、朝がくること。
せめてこの闇を消す、光が差し込むことを願う。
自分にとって「安息」などになるはずもない、深い闇の夜が明けることだけを。
(・・・無様だ、愚かだ・・・滑稽だ・・・・)
ガタガタと震え続ける体に反して、口元からは自らへの乾いた嘲笑ばかりが漏れる。
ここから逃げ出すこともできない。
恐怖に立ち向かうこともできない。
ただ、耐えるだけ・・・いつか来るだろう終わりを願うことしかできない。
・・・なんて、ちっぽけなのだろう。
幹部筆頭という地位を得て、この監獄の中ですら、自分は今守られる存在のはずなのに。
「あの時」とは違うはずなのに、「あの時」と自身は何も変わっていない。
それが余計に、ベルナルドの心臓をギリリと締め付けていく。
恐怖に苛まれ、混乱する頭で何度考えても、誰にも落ち度はなかったはずだ。
このような事態にならないために、何重にも、高すぎる保険をかけていたのだから。
(クソ・・・・!)
止むことのない体の震えが不愉快で、忙しなく体勢を変える。
薄く目を開いても、目の前に広がるのは、闇だけだ。怨む気持ちで、もう一度瞳をきつく閉じようとして・・・
気づく。
視界の端に、小さな光が映った。
縋るように、それを感じた方向へと視線を向ける。
そこには・・・・両掌ほどの、正方形型の穴が開いていた。
鉄格子のついたそれは、外の景色を少しだけ切り取って見せてくれている・・・
小さすぎるが、ここでは唯一の窓と呼べる代物だ。
だがその存在はここに入れられた4日前から知っていた。
ベルナルドを惹きつけたものは・・・・そこから見える、星もない空の中であまりに眩く輝く、黄金。
「満月・・・・か・・・・・」
あんなにも小さな存在なのに。・・・なんて・・・美しい。
届かないと分かっているけれど、手を伸ばさずにはいられなかった。
空一面に広がる闇の中に浮かぶそれは、まるでここから抜け出せる唯一の抜け穴のように思えたからだろうか。
・・・いや。
(・・・あぁ、そうか)
少しだけだが、大きかった震えが落ち着き、息が先程よりも楽にできる。
それは――――――――――
「・・・ベルナルド」
小さな小さな声が、かろうじて落ち着きを取り戻したベルナルドの耳へ届いた。
残っている恐怖と反射的な怯えで、警戒心を露わに振り向けば。
「ジャン・・・・」
二つ先の独房にいるはずの彼が、手に持っている道具で開けたのだろう、扉を開け、いつもの笑みを浮かべていた。
「なんで・・・・」
深夜の牢獄。定期的な巡回が行われている危険なこの時間、当然、ラッキードッグと言われるジャンといえど、
無用に牢の外には出ることはない。
何より、今は脱獄計画を模索中である。
普段以上に自分の身と、その行動によって起こる可能性を深く考えなければならないのに。
「大丈夫・・・巡回の情報は仕入れ済みだから・・・・あと1時間はこの階にはこねぇよ。念のため、俺のベッドにも細工
してきたし、隣と向かいの奴らに口止め料も渡し済」
ベッドの端で座り込んでいたベルナルドの足元まで近づくと、声を潜めながら、そう告げた。
その言葉に胸を撫で下ろすと、ジャンはいつもより力のない笑みを浮かべながら、シーツから出ていたベルナルドの指先に
そっと自分の指と絡ませる。
まだかすかに震え続ける指に気づいても、ジャンは何も言わない。
静かに絡まった指先が暖かくて、優しくて。
「アンタが・・・・・・」
「・・・え?」
「アンタが・・・昼間会った時、すげぇ疲れた顔してたから、さ。
ここで初めて顔合わせた時から、ずっと顔色も悪いし・・・・・ちょっと様子を見に・・・・・」
迷惑、だったか?と普段の勝気さを消し、不安げに問いかける彼に、自然とベルナルドは微笑んだ。
「・・・いや・・・お前が来てくれて、正直、助かった・・・・・」
ここに入ってからというもの、まともに睡眠は取れていない。
精神的にやられてしまっているせいか、食べなくてはいけないと理解している食事も、普段以上にとることができない。
何より、心が休まる瞬間がない。
まともに呼吸もできているのか・・・それすらも不安になる。
「お前がいれば・・・・・」
穏やかに呼吸ができる。
全身の痙攣のような震えも、ほとんど収まっている。
たしかに恐怖は拭えないけれど、こうして平静を保つことができている。
絡めていた指先を離し、美しいブロンドの髪へと手を伸ばす。
(手が、届く・・・・・)
ハハッと零れ落ちたそれは、今にも泣き出しそうにも、歓喜に満ちたようにも聞こえる声だった。
・・・そうだ。決して届くことのない、あの月の光に救いを求めていた訳ではない。
月を通して見ていたものは。
「ジャン・・・・・」
一面に広がる闇の中、眩い光を放つ月・・・。
この牢獄という闇に囚われたベルナルドにとって、唯一の光と呼べるそれは、空に浮かぶそれではなく、
目の前にいるジャン以外の何物でもなかった。
髪を撫でていた手をゆっくりと背中へと回す。
ジャンは何も言わず、ただ笑って、ベルナルドを見つめるだけだ。
それに安心して、そっと、自分の方へと引き寄せるようと少しだけ力を加える。
すぐにベルナルドの行動を理解し受け入れたジャンは、自らその腕の中へと寄り添い、彼の背中へと両手を回した。
ジャンの体温、キュッと自分の服を掴む指先から伝わる感触。
ハァ・・・と深呼吸を一度だけ。早鐘を打ち続けていた心臓の速度が、緩やかになっていく。
「お前はすごいな・・・ラッキードッグ」
「それは計画成功の暁に死ぬほど言わせてやるぜ?」
だから、さ。とジャンは子供をあやすように、ベルナルドの背中を数回撫でてから言葉を続けた。
「アンタの痛みが何かは分からねぇけど・・・俺を信じて、あと少しだけ待ってくれ。
必ずここから連れだして、光の中に戻してみせるから・・・」
満月を背負って微笑む姿に、思わず息を飲んだ。
希望に縋る訳ではなく、彼はきっと成し遂げるだろう。
なんの確信も証拠もない。
けれども、ジャンの言葉。
それ以上に必要なものなんて、あるはずがない。
「お前を信じているさ、ジャン」
強く強く、彼を抱きしめる。
ふと空を見れば、あんなにも眩く映ったはずの月がおぼろげにさえ感じる。
この腕に抱く、自分よりも小さい、けれど何よりも大きな存在だけが、誰より美しく、愛しい。
今までも、これからも、きっと。
「・・・お前以上に輝くものを、俺は知らない」