予感も、直感も、虫の報せも、その瞬間まで何もなく。
足掻くことすら許されずに、それは起きた。
幸運の女神、アンタが俺を守ろうとしたことの結果なら、俺はアンタを許せないぜ・・・・・絶対。
その知らせが届いたのは、俺の代わりに会合に出席したベルナルドの部下からだった。
俺と言えば、急遽組まれたトランプKことベニヤミン氏との1対1での交渉を終えて戻ってきたばかりで、
安堵と共に深く座りこんでいた体にけたたましく鳴り響いたベルがまるで急かすように部屋を一気に満たす。
直感がした。
それも、圧倒的に良くない意味で。
指先に震えが走った――――早く、その受話器を取れ、と。
「ッ・・・どうした?」
直球で答えを求めることがひどく恐ろしく、けれど一刻も早く次の行動をするべきだと何かが警告した。
声まで揺らぎそうになる自分を叱咤して、どうにか絞り出した声はいつでもボスたるべき威厳に満ちたものになっていただろうか。
返ってきた声は、ベルナルドの部下の男だった。
鼓動が速くなる。なのに体の温度がひどく冷えていくような。
―――落ち着け、まだ、答えなど聞いていないのに。
未だかつて感じたことのないような焦燥感に、あっという間に頭が混乱に塗りつぶされそうになる。
ベルナルドの部下の中でも一際冷静沈着だと評価されていた男の声が、たしかに上擦ってしまっていることが、
余計に恐怖心を煽った。
「ボス――――コマンダンテが」
まるで拳銃を突きつけられているような感覚だった。
「コマンダンテが、重体です」
警告音ならぬ発砲音が、ひどく重い音で俺の頭に響いた。
急げ、とだけ告げた。
無言で頷きを返した運転手が、俺の焦りを映すかのように普段よりも相当なスピードで走り出した。
体に伝わる車の振動と合わせるように、心臓が痛いくらいに高鳴っている。
強く拳を握りしめ、額へと当てる。祈りなら、いくらだって捧げる。・・・いや、祈ることしか、今はできない。
それがひどく悔しくて、けれどそれをやめることなど、できるはずもなかった。
ベルナルドが倒れた。
それも、毒を盛られて。
今日の正午から、デイバンから程近い街の新マフィアとの会合はボスである俺自身が向かうはずだった。
だが、それを急遽幹部筆頭のベルナルドが代役となってしまったのは、ベニヤミン氏からの呼び出しためだ。
しかも通常であればベルナルドも同席することを望むはずなのだが、現在の力量を図ろうとしたのだろう、
ボスである俺一人を指名し、これは偶然だろうが時間も会合とモロかぶりの時間を指定してきやがった。
優先順位で考えれば、どう考えてもトランプじいさんを優先せざるおえない・・・代わりとして矛先が立つのは
当たり前のようにベルナルド以外いなかった。
幹部筆頭であり、幹部随一の頭脳と交渉力。まだピヨピヨ言っているヒヨコのようなボスの俺よりも、実力でいえば
よっぽど適役だ。
ボスの顔を潰さないように頑張るさ、そう笑った顔を見たのはたった数時間前。
なのに、そんな時間で世界は牙を向いた。それも俺にではなく、俺の大切な者へ。
毒を持った犯人はすぐに分かった。
それは会合相手のマフィアに紛れて入り込んでいた、旧マフィアの残党だったらしい。
ベルナルドから聞いてはいたが、今回交渉する予定だったマフィアの街には新旧のマフィアが長い間争いを続けており、
ようやく数カ月前に旧マフィアのボスが殺されたと共に決着がついたとのことだった。
旧マフィアは己の街を蝕む存在となり果て、結果それに反発するかのように若き者たちが集まり、新マフィアを作り上げた。
小さかった牙はやがて大きな獲物を噛み殺せるまでに成長し、見事に街を奪還することができた新勢力の手腕によって、
街としての機能を早くも復興する兆しを見せている。
何十年も前に同盟を結び、旧マフィアのボス交代と共に白紙状態になっていたCR:5との関係をもう一度復活させるべく、
あちらさんから連絡がきたのはしばらく前のことだった。
今回は顔合わせということで、正式な同盟復興云々は次回以降ということだったから、優位に立っているこちら側がボス自身が
向かうことができなくなったとしても異論は唱えないだろう。
会合・・・という名の顔合わせの食事会。
相手のボスは俺と同じくらいに若いやつだったらしいが、そこは旧マフィアを壊滅に追い込むことのできた新マフィアのボスである
べく、とても頭の切れる男だったらしい。
こちら側にとっても同盟を新たに結ぶことはプラスになるだろう条件を交渉に出してきて、次回の会合での同盟復活は決定的だろう
空気が流れていた。
だが、それが一瞬にして変化してしまう。最後に出されたコーヒーに口をつけた、ベルナルドと相手のボスが同時に倒れたことによって。
幸いだったのは、二人ともすぐに違和感を感じたのだろう、少量は呑みこんでしまったものの、すぐに吐き出したらしく、接種した
毒の量が微量だったという点だった。
毒が何だったのか、まだ調査中とのことだが、たった少量で昏睡状態にまで陥ったことから猛毒だろうことが予想される。
二人ともすぐに病院に運ばれ、処置されたため、一命は取り留めたものの、油断はまだできない状況だとも報告を受けた。
犯人である鼠は、こちらの手中にある。逃げようと従業員の通用口へ向かっている途中に追いかける者へ発砲し、あげくそれが自分の
足を貫通し、動けなくなったという・・・当然だ、俺を敵に回すことは、世界を敵に回すことだ。
CR:5の地下で、ジュリオはもちろん、ルキーノとイヴァンも拷問に当たっている。
地獄を見せてやれ。(だが、殺すな。その引き金は、俺が下す。)
すべてを理解した有能な部下たちは、俺の願いを見事に叶えているだろう、恐怖を感じるための視覚と聴覚を残し、他の部分が俺の
行くまでに果たして残っているのかは不明だが。
いくら憎んでも、殺しても、あきたりない。
ベルナルドを殺そうとした、どんなに叫ぼうとも、もがこうとも、血を流し許しを乞おうとも、嘲笑を浮かべて、その頭を何度だって
踏みつぶしてやる。
(俺が、本当は行くはずだった)
毒を盛られて倒れるのは、俺のはずだったのに。
(ラッキードッグ・・・?こんな)
こんな悪夢のような「幸運」なんて・・・。
(死ぬな、ベルナルド)
通されて部屋は、ただ広く、真っ白だった。
清潔すぎてどこか現実味がなくて、その中にいる彼の姿はそれをさらに増長させるもので、
まるで夢の中の出来事のような錯覚すら起こさせるほどだ。
デイバン市内のCR:5の息がかかった病院のため、用意されたのは新設されたばかりの病棟の、かつ、当然部屋は最上階の専用ルーム
だった。
晴れ渡った空からの光が窓から差し込んでいる、眩しいほどに。
きっといつもだったら寝不足で目を顰めるだろうに、今は静かに、息をしているのかすら不安なほど静かに、そこに彼はいる。
顔色が良くないことはいつも通りだし、目の下にあるうっすらとしたクマだって普段と変わらない。
―――なのに、目を覚まさない。
俺がこの部屋を出るまで誰も入れるな、部下が頷きを一つ返し、背後の扉がそっと閉められた。
それが合図になったのか、立ちつくしかけていた俺の足は吸い寄せられるかのようにベットまですんなりと動いていく。
だが、ベルナルドを見下ろす位置にまで辿りついた時、あっという間に両足から力がなくなって、真っ白な床に両膝をつき、
シーツをただ強く握る感触で、これが現実なんだと頭が理解する。
「ベルナルド・・・・・」
壊れ物にでも触れるみたいに、彼の目元へと手を伸ばした。
そんな風に俺へ指先を伸ばしていたのは、この男だったはずなのに。
触れた彼の肌は、たしかに暖かかった。俺よりは少し低いくらいの、その体温。
生きている、紛れもなく、俺の前で。
「ありがとう・・・ゴメン・・・・・」
生きていてくれてありがとう。
守れずに、ゴメン。
もしも俺の「幸運」という矛先が、彼に向いてしまったのならば。そんなことが頭に浮かんで、その度にこびり付いて離れない。
「目を覚ましてくれ、俺の隣にいるのはアンタしかいない」
俺の後ろを預けられるものならばいる。ルキーノも、ジュリオも、イヴァンも、大切な仲間であり、家族だ。
彼らに続く兵隊たちも当然。彼らがいるからこそ、俺は王座にいることができる。
けれども、この手を掴むのも、甘すぎる瞳で睦言を囁くのも、俺のカポではなくただの一人のジャンとしての弱さを零せるのも、
それを受け止め、「愛してる」とキスをするのも。
カポであるための強さも、「ジャンカルロ」としての弱さも、俺が俺でいるために、隣で支えてくれるのは。
ベルナルド、アンタしか、いない、だろ?
(一生涯をかけてそれは俺だけの役目だって、言っただろ・・・・・?)
鼻先が触れ合うほどに近づき、そっと閉じられたままの彼の瞼にキスを落とす。
警戒心の強い男だがようやく最近は俺の傍で深い眠りに落ちるようになった・・・だが何か仕掛けようとしたならば、彼は必ず
目を覚ますのは変わらなかったくせに。
今は俺の存在なんて知らないみたいに・・・それがひどく悔しくて、悲しくてたまらない。
「俺からのキスなんて、滅多にねぇんだぞ」
涙が視界を歪ませ、ベルナルドの姿がゆらゆらと揺れる。
あぁそうだ、今は誰もいない。泣いてしまっても構わないじゃないか。
だが、ベルナルドが目を覚まして初めて見るのが俺の泣き顔じゃ、あまりに情けない。もう少しだけ泣くのを我慢して待っててやるから、
早く、其の眼に俺を映せよ。
口の中が乾いて、カラカラだった。不安と混乱を誰にも見せないためにきつく噛みしめた唇は、うっすらと血の味がした。
キスをしても感触は良くねぇだろうな、と一人笑うと、少し血の気の引いた男の唇にキスをする。
触れるだけの、けれど、全力で祈りを込めた、長い長い口づけだ。
「・・・・・!」
唇を離したところで、男の睫毛がふるりと動いた。
それは願いが見せた幻ではなく、数回それが繰り返された後、薄らと瞼が動き始めた。
「ベルナルド・・・!」
思わず名前を呼び掛けると、同時に瞼が開かれた。現れた青林檎色の瞳に、たしかに自分の姿が映る。
途端、涙腺が決壊したみたいに、溢れだす涙。
必死に笑顔を作ろうとする姿は滑稽にすら見えるかもしれない。
「・・・ジャン、」
呼ばれた声が、体中に沁み渡る。
「そこに、いるね?ジャン」
自分を見つめているはずの瞳が、周囲を伺うように左右に揺れる。けれども気配で察したのだろう、再び俺の元へとゆらりと戻った。
・・・再び鳴り始めた警告音、忍びよる恐怖に、指先に震えが帯びていく。
「あぁ・・・そうだぜ、ベルナルド、俺は、ここにいる」
俺のいる位置とは少しずれた場所に伸ばされた骨ばった手、指先を絡ませれば、彼の手も震えていた。
「よかった・・・お前が無事で・・・・」
「それは俺の台詞だっつーの・・・!」
病室に入る前、彼を見た医師から告げられた。盛られた毒が判明した、それとベルナルドも相手のボスも、命の危険からはもう
回避されたと。
できうる限りの適切な処置はした。
致死量以下、それもほんの微量しか摂取していないため、痺れや麻痺などが残ることも多分ないだろう。
だが、毒のために、もし目が覚めた時に失明していた場合。
再び光が宿ることは、限りなく、ゼロです。
「ジャン・・・ジャン・・・・」
穏やかに俺の名を呼ぶ、その声は必死に震えを隠そうとしている。
なぜだって?そんなの、俺を少しでも安心させる以外に他ならない。
アンタの嫌いな暗闇で視界が覆われているのに。、眩しすぎる光の一欠けらすら、感じることはできていないのに。
怖くて、逃げだしたくて、叫びだしたいくらい、恐怖に包まれている中で、ただ自分という存在だけが彼をここに繋ぎとめている。
「・・・ッ・・・・!」
心の中で、何度も謝る。声にはできない。
それは彼の行いを否定することになる。「よかった」と呟いた彼の言葉は、例え恐ろしい暗闇と引換にしたとしても、自分を守れた
ことを何よりの誇りと思う言葉だ。
だから、だから俺が伝える言葉は、ただ一つだけでいい。
大丈夫、ボロボロに泣き崩れている顔でも。
血の滲んでいる唇でも。
爪が食い込んで血の浮かんだ掌でも。
すべてを隠して、俺は、笑える。
アンタのためなら、笑える。
「ありがとう―――――愛してる、ベルナルド」