慌ただしい、という言葉が正にピッタリだと思う。

カポであるジャンカルロの執務室を、数人の部下たちが入ってきては各々自分のすべき仕事 (主に報告と書類提出、承認の判待ちであるが)を処理し、足早に部屋から出ていく……… この光景がひらすらに繰り返されているのを柔らかなソファに背を預けながら主たるジャンはどこか他人事のように見ていた。
カポの執務室を訪れる人間は常々多くはいるが、それでも今日の来客数は確実に通常の二倍はいるだろう。
毛足の長い絨毯に埋め尽くされた室内は皮靴の足音もほとんど吸収してしまい、その中で動く彼らの規則正しい歩幅といったら、 何だか現実感が欠けているような気すらするから不思議だ。
溜息と苦笑を同時に零しながらテーブルに放置されていた冷めかけたコーヒーに手を伸ばそうとすると、何とも静かに、 かつベストなタイミングで、湯気を上げ芳醇な香りを振りまく新しいカップと交換された。

「グラーツェ」

どこのホテルマンだと思うような、無駄のない見事な動き。
少々の驚きを瞳に映しながら礼を伝えれば、いえ、と言葉少なに黒服の男が眼鏡の奥の目を少しだけ細めて微笑んだ。
香りに誘われるように一口飲みこめば、あぁやはり、ジャンが望む通りのミルクと砂糖、それに多分蜂蜜が一スプーン分入れられている。
満足気に頷いたカポの姿に安心したのか、一礼をすると古いカップを音も立てずに下げて男は定位置へと戻っていった。
素晴らしい。一度覚えたことは絶対に違えない、それは重要な作業であろうと、コーヒー一杯の配合であろうと変わらない。
組織には特色も様々な人間が多種多様にいるが、幹部たちによってその色は綺麗にまとめられている。
こういった、精密かつ、几帳面なことが何より秀でているのは……幹部筆頭であるベルナルドの部下たちだ。
先程このコーヒーを入れてくれたのも、そして今、この室内を出入りしているほぼすべての人間も、正に上記の通り。
なぜならば。

「ん……なんて書いてあるんだろうね、これは」

その長たる人間が、ココにいるからに他ならない。
ジャンの隣に座る男は、落ちてきた髪を一束掻きあげる仕草をしながら、小さくタイプされた文字を読み取ろうと少し眉を 寄せているようだった。
隙なく完璧に着こなしている濃紺のスーツは下ろしたばかりのものなのだろう、皺もなく、少し明るめのストライプ柄のネクタイと 合っていた。薫る匂いは、慣れ親しんだ香水と僅かな高級タバコの匂い。
血色の良い顔色は正直めずらしいかもしれないけれど、いつも通り、見た目は満点の良い男だ。(中身は、ねぇ?)
けれどもそちらへと視線を向けるのがちょっと躊躇ってしまうのは、どうしても消せない違和感があるからだ。
横目でチラリと彼の横顔を一度見て、気づかれないよう、う、とジャンは心の中で弱音を吐いた。
違和感は間違いなく違和感であって、決して嫌悪感などではない。
……ただ、慣れないだけだ。
そう言い聞かせると、段々と書類と顔の距離を縮め、あと少し放っておいたらそのまま紙切れに口づけを送ってしまうだろう男に 声をかけた。

「ダーリン、そんな無機質なものとキスしちゃいたいの?」

「……ひどいなハニー、俺は今、なかなかに必死なんだよ?」

軽口をかければ、寸前まであった眉間の皺を綺麗に消して、甘さがちょっと多いんじゃないの?という恋人専用の笑みを男は浮かべた。
ジャンへと顔を向けたベルナルドは、血色だけでなく、目の下に居続けていた薄らとしたクマも今日は姿を消していた。
普段であれば、いつ倒れるじゃなかろうかという不安を持たずにはいられないワーカーホリックが本日はとても健康体に思える。
だがやはり……正面から見てしまったそれは見慣れない……不覚にもジャンの心臓を叩きつける力を持っているのだから困ってしまう。
口元には笑みを浮かべたものの、不自然でない程度にそろりと視線をずらせば、ん?と男は声を上げた。

「どうしたんだい?……あぁ、やっぱり、見慣れない?おかしいかな?」

髪を触れていた指先を、こめかみのあたりに移動する。
いつもだったらそのまま眼鏡のフレームへと手をかけて、ズレてもいない眼鏡の位置を合わせるような動きをするのだけれど、 そこにその存在はいなかった。
綺麗に通った鼻筋、影を落とす長い髪の毛、だがそこに見慣れたものがないだけで、アップルグリーンの瞳はあまりにも鮮やかに映った。
睫毛が結構長いだとか、意外に目つきはちょっと鋭いだとか、あれだけ一緒にいるのになかなか見ない光景にどうしてもそこに目が いってしまうのだ。
しかも悔しいが……もう数時間は経つはずなのに、ジャンの鼓動は定期的に高く飛び跳ねる。

(なんだよ……こういう素顔だったワケ?)

所謂、少なからず惚れた欲目、というものがあったとしても、目の前にいる男は綺麗だった。
もちろん女に向けるそれとは意味が違って、男らしい顔つきなのだが、「綺麗」という表現がジャンの中にある言葉の中では 一番的確なはずだ。
パーツの一つ一つが上品な部類なためだろうか、だが遮るものをなくした瞳だけは、上品というには少し鋭すぎる。

「見慣れないっていうのはアタリ。アンタ、それで髪の毛縛って整えたら、ルキーノに負けないくらいにシニョーラたちの心を 奪っちまえるだろうな」

現に、ラッキードッグのハートもがっちりゲットしてますし。うん、ホント悔しいけども。
その思いはもちろん悟られないように。

「ボスにそう言ってもらえるとは、至極光栄ですよ」

救いなのは、彼の視界は今鮮明ではないことだ。
近距離まで寄らなければ通常と同程度の情報が得られない……ジャンの変化に関しては敏すぎるベルナルドだが、 今回ばかりはそれも叶わない。
頬に少なからず上がってくる熱を自覚している分、ジャンにとってそれは都合が良かった。