夢を見た。

現実感に溢れたそれがなぜ夢だとすぐに判断できたのかは、自分を取り囲む世界が何年も前のものだったからだ。
ベルナルドは、今は懐かしい隠れ家の中にいた。
積み上げられた本、紙が散乱する机。あまり広くない雑然とした室内で、一番面積を取っているだろうベッドの中にベルナルドはいる。
薄い毛布を被り、頭は霧がかったように朦朧としていた。
夢でまで体調が悪いなんて、なんてツイてない。
しかも現実よりも体は重く、動くことすらもひどく億劫に感じる。寝返りを打とうと頭を動かすと、 脳がグラグラと揺れるような気持ち悪さに襲われた。

(まったく、なんて夢だ)

あまりにリアルな感覚に、本当にこれは夢なのだろうかという疑念がわき起こり始める。
夢を夢として認識できるという状況も初めてで、少し戸惑いもあった。
ガチャガチャ。
ベルナルドの耳に届いたのは、忙しげにドアのノブを回す音だった。
だが、当然鍵はしまっている。ドアの向こうの相手もすぐにその動きを止めた。

(誰だ……?)

 この隠れ家の場所を知っているものは、側近の数名と…他に……他に――――…

「ベルナルドッ!」

答えを出す前に、ここを知る最後の一人が慌てたように入ってきた。
柔らかな金髪を揺らして、現実よりもずっと質素な服を着ていたけれど、幼さを残す顔はそれでもたしかに。
ずっと会いたかった―――――

「ジャ…ン……」

思った以上に弱々しい声が出てしまって、ジャンはさらに驚いたようにベルナルドを見つめ、ベッド脇へと急いで近づいた。

「バッ……!一時間待っても来ねぇし、電話かけても反応ねぇし……!アンタ、いつからそんな状態だったんだよ……!」

 ひんやりとしたジャンの掌がベルナルドの汗で張り付いていた髪に触れ、額へと当てる。

「……熱も結構あるな……何か食った?薬は?」

ジャンの手が心地よくて、少しだけ気分が落ち着いた。
一度だけ首をゆっくりと振ると、彼は瞳を揺らして、バカ、と零す。
言葉とは裏腹にその瞳に苛立ちはなくて、自然と口が緩んでしまう。

「何笑ってんだよ。とにかく、何でもいいから食べて、薬飲んだ方がいいよな……」

心配してくれる姿が愛しくて、嬉しくて。
あぁ、なんて良い夢なんだ。なんて自分はツイてるんだ。ベルナルドは簡単に数分前の考えを否定した。

「キッチン借りるぞ」

そっと触れていた掌が離れ、ジャンは部屋に備え付けられたキッチンへと消えていこうとする。
それよりもここにいてくれ。無意識に伸ばした指先はジャンのシャツに僅かに触れただけだったが、 けれども気づいてくれたのだろう、振り向いた。

「あ……」

「なんて顔してんだよ……すぐに戻ってくるから、待ってて、ダーリン」

髪に優しく触れてくる指先。目元を細めて了解と返すと、ニッと笑って、今度こそジャンはキッチンへと姿を消した。

(ここは比較的使ってたはずだから、ある程度食料はあったはず……)

食材や料理器具の場所を確認するような音が聞こえてきた後、火をつけて、準備を始める音が響き始める。

(懐かしいな……)

この夢は、ベルナルドがジャンとの約束を連絡もなしに唯一破ってしまった時のものだ。
前日まで忙殺を極めていたベルナルドが重い体を引きずってどうにか隠れ家に戻った後の記憶がなく、 気づいた時には久々の休日に昼食の約束をしていたはずのジャンが大慌てで現れた。
約束した場所に姿も現さず、知っている隠れ家すべてに電話したけれど繋がらず、 鍵を渡されていたこの家へとやってきてくれたのだ。
いつも飄々とした表情は、ベルナルドの姿を見て、不安と焦りを浮かべていた。
そして、すぐに安堵と心配を混ぜたような表情に変わった。
熱で視界もゆらゆらと揺れている中でたしかに見たその姿に、ベルナルドは歓喜した。
あの頃、ジャンと出会ってそれなりの時間がたって、軽口も気軽に交わせるようになって。
ベルナルドがジャンへの気持ちが仲間に対する親愛などではないと理解して短くはない時間が経った頃だったからこそ、 必死に駆けて汗を浮かべてやってきてくれたことに、安心したように微笑んでくれたことに、胸がどれほど躍ったことか。

「お待たせ。大したもんは作れねぇけど、何も食わないよりはいいだろ…って、何笑ってんだよ?」

「なんでもないよ…ありがとう、ジャン」

「俺の看護料は高くつくぜ?ダーリン」

「フフ、お前がしてくれるならいくらだって札束を積むさ、ハニー」

暖かな湯気を上げる皿を持って戻ってきたジャンは、多少はいつもの覇気を取り戻したベルナルドとの会話に安心したようにベッドに腰掛けた。

「食べられるか?」

「ん……」

体の重たさはやはり感じるが、どうにか上半身を上げることはできた。
だがそれでも今のベルナルドにとっては重労働で、ジャンが差し出してくれている皿を受け取ろうと再び腕を動かそうとして、視界が揺れた。

「――――ッ…」

「やっぱ辛そうだな…じゃあ……ほら、あーん」

少し照れくさそうに、リゾットを掬ったスプーンをベルナルドの口元へ伸ばす。
一瞬現実が理解できなくて、パチパチと間場抱きを数回してしまう。

(…そうだ、こうして食べさせてもらったな……)

ジャンと恋人になれた今でもこの日のことはよく思い出すくらい至福なものだったのに、なぜか夢の中では記憶が混濁している。 この後ジャンがどういう行動をしたのかも思い出そうとしても、それは叶いそうになかった。
もう一つ不可思議なのは、感情までが退行してしまっているということだ。
幼いジャンに微笑まれる度に感じる愛しさと、僅かな罪悪感。
淡い希望と、それをすぐに打ち消す諦め。
混ざり合うことのないそれは、ずっとずっと長い間ベルナルドの胸の内に居座っていた感情であり、 ジャンとの関係が変化して、ようやく姿を消していった……はずなのに。
ジャンの姿同様、彼の笑顔も、現実でベルナルドに向けられているものとはやはり僅かだが何かが違うと感じる。
それは純粋に「仲間」を心配する過去のものに違いない。
まさか片想いだった頃をもう一度味わうことになるとは……。
夢とは、まったくもって分からない、不可解だ。だからこそ夢なのだろうが。

「なんだよう、早く食えよ。恥ずかしいじゃねぇか」

一向に口を開こうとしないベルナルドに、ジャンが拗ねたような声を出した。

「ゴメンゴメン……頂きます」

夢の中で悩んでもどうしようもない。
やがては覚めるのだから、懐かしいこの時と僅かな痛みを素直に体感することにしよう。
思わず笑いを零した後、小さく口を開けて、柔らかに茹でられたパスタを咀嚼する。
先程ジャンが料理をしている時もそうだったが、この夢には匂いも、味も存在するらしい。
ジャンの作ってくれたリゾットはシンプルだったが、薄味に作られた優しいそれに胸が暖かくなっていく。
こくりと飲みこんだのを確認して、ベルナルドの顔をそっと覗きこんでくる。

「おいしいよ」

「マズイっていったら、殴るっての」

それでも褒められたことに素直にジャンは笑った。そうしてまたスプーンを口元へと運ぶ。
正直食欲はほとんどなくて、薄味だと感じるそれの細かな味はよく分からなかったけれど。
せっかく作ってくれたジャンの手料理なのに、熱の影響が舌にまできているのが残念でならなかった。
だがベルナルドが食べる度にジャンが笑みを深めていくものだから、皿が空になるまでベルナルドがスプーンを拒むことは当然あり得ない訳で。

「ごちそうさま、ジャン」

綺麗になくなった皿を、驚いたようにジャンが見ていた。

「アンタにしてはよく食べたな。もしかして、無理して食べた?」

「ハハ、そんなことないよ。本当においしかったよ」

「普段からこれくらい食べろよな。……そうだ、薬。買ってこないとねぇよな?」

「薬ならそこの引き出しにいくつか入ってるはずだ。すまないが取ってくれるかい?」

目線で入り口付近に置かれている棚を伝えると、ジャンが何段かある引き出しを確認し始める。

「何段目だったかな…たしか、二段目だったと思うが……その中にピルケースが入っているはずだ」
ベルナルドに言われた段を確認したジャンは目的の物をすぐに発見し、キッチンにまた姿を消して、なぜかカップを二つ持ってベッドへと戻ってきた。

「はいよ……口移しで飲ませてあげましょうか?」

「魅惑的な提案だね。ぜひお願いしようか」

「……真剣な顔で言うな」